あとがき

 何人かの方々のお勧めをうけ、私の戦後の拙い自分史をこんな形で本にすることになりました。
 何はさておいても、まず第一に、心のこもった寄稿文を寄せて下さいました作家の林京子さんに、「こんなにも素敵な寄稿文を書いていただき、有難うございます」と、すぐにも飛んで行って直接に言いたい思いで御礼を申し上げます。また、パソコンの誤変換の多い原稿を読んで直截に助言を下さり、こんな見事な本に編集して下さった被爆者の吉田一人さんとご長男の吉田みちおさんに、さらに、事実の不確かな記憶やうろ覚えの日時を正していただいた日本被団協の西村直子さんに心から御礼を申しあげます。
 私は1945年8月6日、広島で原爆攻撃を受けましたが、たまたま直爆死を免れ、修羅の地獄の真っただ中に8月15日の敗戦を迎えました。
 薬品も資材も人手もないなか、無我夢中で救急医療を続けるうち、11月某日、厚生省技官に任命され、柳井国立病院勤務、病院船勤務の後、国立医療労働組合専従役員になり、敗戦直後の全官公労の闘争に参加、1949年9月、占領軍総司令部のレッドパージで厚生省技官を首切られ、民主診療所を設立して民医連運動、医療生協運動を進める傍ら、被爆者として原水爆禁止運動に参加、国内、国外に被爆の実相普及のため、語り部活動、講演活動をおこないながら、厚顔にも革新政党の市議会議員を二期つとめるなど、身の程知らずにあれもこれもと働き続けてきました。また、1979年からは日本被団協原爆被爆者中央相談所の仕事を引き受け、全国津々浦々を歩いて被爆者相談事業の指導、援助につとめてきました。
 それが、1999年2月のある日、突然、82歳になった自分を改まって意識し、「自分はこれまで何をしてきたのか」「今までの人生は何だったのか」と、何か大変な忘れ物をしているような不安な気持ちに襲われました。
 そして書き始めたのがこの自分史です。公開する気持ちはなく、自分を見つめ直す懺悔録のつもりだったので、今まで誰にも話したことのない恥ずかしい「負」の部分ともまともに向き合って上中巻を書きました。
 無理にお願いして読んでいただいた吉田さんから思いもかけず、是非出版してほしいと言われ、とんでもないこととお断りしたのですが、先生の人生は伝え残すべき歴史の貴重な証言ですからと説得され、プライバシーにかかわるところなどを省いて、あけび書房の久保則之さんのお世話になることになりました。
 実は、年次でいうと1987、8年頃で終わっていて、下巻にあたる部分が書いてありません。晩年は同じことの繰り返しが多く、とりたてて取り上げる目玉商品がないことと、時代が大きく変わりつつあるのは感じていても、全身全霊うちこんだ民医連運動、核兵器廃絶運動の到達点と、これからの展望が見えないので、自分としての総括ができないでいるため先送りしました。このままで終わることになってもそれはそれでいいと思っています。一人の人間の中で何かが完成することはあり得ないのですから。
 英雄でもなく偉人でもない、しかも、まだ生きている草の根の平凡な一人の医師の生き様に意義などあるわけもありません。しかし、世紀の大虐殺、原爆地獄を生き延びて、58年の間、名もない多数の被爆者が自らの死を通じて教えてくれた「低線量放射線による体内被爆」の恐怖を懸命に広めようとした努力には、意味があったに違いないとひそかに自負しています。
お読みになってのご批判やご感想をお聞かせください、楽しみにしています。
2003年10月末日 肥田舜太郎