まえがき

 

 あなたは、いま、人から「見えない」何かを抱えて生きていませんか?
 
  わたしは高校を卒業した春のある朝、重い脳疾患に倒れました。すぐに病院で救命のための開頭手術が施(ほどこ)されました。九死に一生を得たことは幸いでしたが、次に目が覚めたとき、脳へのダメージで意識も安定しない障害者になっていました。
  見た目は健常時代と何一つ変わらない、しかしどこか能力に異常を抱えている、そのような障害者です。
  激しい痛みを伴う闘病生活、病因を特定するための検査入院は過酷なものでした。しかし、それよりはるかにつらかったのは、退院後です。
  何より戸惑ったのは、常に亡霊のように自分に付きまとう「違和感」でした。
 
  リハビリ入院を経て、ようやく、「見えないもの」の正体が「高次脳機能障害」であることがわかりました。当時は、ほとんど認知されていない言葉でした。しかも、正体がわかれば状況は改善すると信じていたのに、わたしの「違和感」が和らぐことはなかったのです。
 
  人は、「見えないもの・知らないこと・よくわからないもの」に出くわすと、不気味で恐怖を感じる生き物です。簡単な答えで、自分を安心・納得させたがるようにも思います。
  ・見えないから怖い。
  ・知らないから知っているフリをして怖さを誤魔化したい。
  ・よく分からないから遠ざけたい。
  これは、「ふつうの人」が「不可解な人」に対して抱いてしまう典型的な差別と偏見ですが、それは、時に差別対象への攻撃性として現れることがあります。
  そして十代だったわたしに突然やってきた「見えない・知らない・よく分からない自分」をわたし自身が短絡的に拒絶するということ。それは、自分を殺す、という「自殺」そのものを意味していました。
  10年より前のわたし、あるいは今のわたし、のどちらかしか知らない人は、「大げさ」と笑うかもしれません。でも本当は、誰にも言えないヒミツを抱え、居場所を探していたのです。
 
 (なぜ、自分だけがこんな得体のしれないものを抱えて生きていかなければならないのか!)
  そんな不安と混乱が、わたしの頭のなかでいつもグルグルと渦巻いていました。
  わたしのなかに存在する「見えない」ものは、やがて、人に「見せたくない」ものとなっていきました。
 
  そんなとき、わたしに、ある「出会い」がありました。
  その「出会い」をきっかけに、わたしは自分のアイデンティティと希望を求め、病院を抜け出し、家も飛び出し…、あれよあれよと田舎から東京まで一人やって来ました。
 
  新しい場所では、人目が気になって、自分の弱い部分も上手に見せられませんでした。
  心はドロドロなのに、平気な顔をした偽りの健常者を演じてみたり。
  心がキラキラで、お涙頂戴の頑張っている障害者を演出してみたり。
  いずれの場合も、底が割れると相手からの信頼を損ね、わたしも傷つきました。
  不器用で多感だった思春期。外見から分からない障害を持つ人に対する理解や情報が、まだ医学や制度でさえ混沌としていた当時。声をあげればあげるほど、一般の人からの風当たりも強いものがありました。
  どうして、あのとき、自分だけ生き残ってしまったんだろう…。
  心無い言葉に傷ついてヤケになれば、そんなバチ当たりも考えたくなります。
 
  しかし、多くの人たちに出会い、助けられ、裏切られ…とさまざまな経験を積むうちに、わたしは10年たって今、それまで荒(すさ)んでいた「ライフストーリー」を愛(いと)おしく思えるようになっていきました。あらためて、時の流れとは、理屈を超えて不思議なものです。
  と言っても、「秘すれば花」かもしれない。周囲の勧めもあって出版に向けて筆をとりましたが、今さら、個人的なエピソードを掘り返し世に贈り出すことに、どの程度の値打ちがあるのだろうかと悩んだのも事実です。
  おそらく多くの人がよく知る複数の事件。青春の頃。同級生の死。生死を彷徨(さまよ)う闘病。家族との関係。成し遂げた制度改革。そして若い人生の途中で、障害者と健常者のボーダーとして生きることとなった青年期の心理面にライトをあてました。
 
  いま、世間では、「ダイバーシティ」とか「インクルージョン」といった言葉が流行(はや)るようになりました。かなり簡単に言えば、障害者やLGBT、ホームレスなどマイノリティ(少数派)とされる弱者を理解し、共生しようというヨコ文字です。
  もちろん、このような考え方は少し前に比べれば喜ぶべきことだと思います。
  ただ、わたしは、これまでの出会いや経験から、「生きづらさ」を感じているのは、必ずしもマイノリティだけではないと考えています。
  わたしは、人々の「多様性」より前に、個人のなかにある「多面性」に目を向けたい。「共存」を大きく主張するより前に、「そもそも一緒にいなければならない意味」について問い直したい。そのように思うようになりました。
  マイノリティ、マジョリティ(多数派)、と分断せずとも、人は誰だって、笑顔の裏に秘した「見えない何か」を抱えて生きているからです。その意味では、老若男女を問わず人の数だけ人生があり、一人ひとりが当事者です。
 
  親や先生が、マルやバツを付けてくれる答えの用意された問題は義務教育ぐらいまで。社会や人生には、答えのない問題ばかりが横たわっています。そして、それにぶつかりながら人は生き、自ら考え自分だけの答えを見つけ出していくのだと思います。
  若輩者のわたしですが、もし本書が、そういった難題に直面し、悩んでいる人たちにとって、一つでも参考になることがあれば、神に生かされた二度目の人生を心より幸福に思います。
 
                   2015年10月                     小林 春彦