あとがき

  

 JR福知山線事故から10年

 原稿を書き上げて先日、JR福知山線事故から10年という節目の事故前夜4月24日。青春時代を過ごした兵庫県三田市の三田市総合文化センター「郷の音ホール」で「追悼コンサート&希望トーク」という追悼イベントを企画・開催しました。
 例年、春がくる度に多くのメディアが「JR福知山線事故から○年」と伝えます。それは、私には「障害者になって○年」と訴えかけてくるようにも聞こえてなりませんでした。
  しかし、ようやくその○年が二桁となったということで、何か地元に恩返ししたいとの思いが巡りました。
  そこで、私が発起人となり、東京から声をかけました。関西在住の小学校、中学校、高校の同級生たちが実行委員を組織してくれました。当日2時間の催しでは、私も帰省して総合司会を務めました。
  三田市長をはじめ、市内の吹奏楽団、少年少女合唱団、混声合唱団、オーケストラに参画していただき、7歳から80歳までの市民が様々なジャンルの音楽を奏(かな)で、会場で想い想いを共にしました。

 翌日、私は福知山線に乗っていました。列車が尼崎駅にさしかかったとき、哀悼の長い警笛が鳴り、車掌さんが事故10年に対するお悔やみと挨拶文を数分かけて読み上げはじめました。そしてそれを聞きながら、例の事故現場の前を通過しました。
  あの脱線事故以来、鈍行も快速も、事故現場を通る時はとりわけスピードを落とすのが習慣になったのですが、この日はその速度の落ち方もとりわけ…という感じでした。まばらな乗客も、神妙に窓の外を眺めていました。
  あのとき起きた事件や事実も、そこから今にまでなんらかのかたちで「後遺」しているものごとも含めて、今後も忘れられないことはたくさんあります。
  しかし、そういう記憶や過去の産物を宿しながらも、今一番自分がリアルに意識できて、実感できるものは、やっぱり「今」の自分の肉体であり、感情であり、思考であり、取り巻かれている環境です。そして、それらこそが、唯一今からでも、自分自身の力で変えていけるものでもあります。
「過去」は、「今」の心身に強く影響をおよぼすものではなく、必要なときにだけ思い出したり反省したりして、理想としての「未来」をつくりだすための、最小限の判断材料にとどめておきたい、と思うのです。良かったことも苦いものもいっぱい詰まった卒業アルバムのように…。

 改めて、あの事故で亡くなられた方に、心からご冥福申し上げます。
 被害に遭われた方に、心よりお見舞い申し上げます。

 合理的配慮の時代がやってくる

 ところで、思春期にしてはあまりにも目まぐるしい変化に追いつかなかった十代の私。心を病ませていたとき、ある政治家に社会の矛盾を口にして、こんな説教をされたことがあります。
「世の中には、手足が無いというのに、もっと大変で、前向きに頑張って生きている人がいる。どうして君は五体満足で、そんなに屈折しているんだ!」
  私は「高次脳機能障害」という診断を下されました。生まれつきの先天的な性格や能力と、病気をしたから抱える後天的な性格や能力とを区別するのに、困惑していました。
  何を受け入れて、何を克服するのか。
  もちろん、生まれつきどうだったかとか、病気をしてどうなったかとか。そういったものをひっくるめて、人は「今あるものが全て」と引き受け、勝負していかなければならなりません。それは仕方ありません。
  そうではあるけれども、あの日、権威からの怒鳴り声に怖くて返す言葉もなく震えていた私が求めていたのは、「哀れみ」でも「優しさ」でもなく、ただ「公平さ」一つでした。

 アメリカには、DO‐ITでも長く議論してきた「合理的配慮」という考え方があります。それは「障害者が何らかの困難に対しての配慮を得ることは、周囲の善意ではなく、障害者にとって人として当然の権利である」という考え方です。
  そしてその配慮を要請するのは、家族や配慮を提供する側といった周囲でなく障害をもった当事者本人でなくてはなりません。ですから、障害者には、自分の障害とそれによって生じる困難と希望の配慮を説明するという自立した態度が求められます。
  さらにこの「合理的配慮」が画期的なのは、お役所的な障害種別による画一的な配慮の提供ではなく、同じ障害を抱えていても、その困難の現れ方は十人十色ですから、一人ひとり個別のケースを考えなければならないということです。
  ただ、これは必ずしも障害者を主体に考えられたものではなく、配慮を提供する側(教育機関や就労の現場)にとっても、過度な負担とならないよう、合理的にお互いの妥協点を調整する、という意味合いも含んでいます。
  私がこの本でマイノリティに限らずマジョリティにもゆとりが必要だ、と伝えたかったのは、双方が様々な困難や事情を抱えているなか、一人ひとりと向き合うためには、互いが各ケースで求められる本質とは何なのかを、丁寧に議論する余裕が必要と思ったからです。
  マイノリティがマジョリティを思いやるなんて、上目線でしょうか。
 日本では、特別支援・特別措置という言葉のように障害者への支援を「特別」と言います。アメリカでは、「level he playing field(土俵を等しくする)」と言います。アメリカでは、ハンディのある人が支援を受けることは人として当然の権利と捉(とら)えられているのです。
  これは、運動会で一緒にゴールしましょうとか、順位をつけるのはやめましょう、という話ではありません。
  もちろん、全てアメリカに倣(なら)うべき、とも思いません。日本は日本で独自の道を切り拓いていけばいいのだと思います。
 ですが、やはり先行事例として見る限り、「合理的配慮」という考え方には参考にすべきところが多くあるように思っていました。
 
「優しさや善意」「公平や公正」「差別と区別」…。私たちが当事者としてこの日本に育ち、そうした難題についての議論を続けていたとき、一つ大きな出来事がありました。
「障害者差別解消法」という法律が国会で成立し、いよいよ2016年に施行されることが発表されたのです。
  その法律には「合理的配慮」が記述され、本当の意味で、日本に合理的配慮が誕生することになりました。これは日本にとって記念すべきことです。関係者の間で、大きな話題として駆け巡りました。
  私も本書をイメージし始めたころで、自分のやってきたことを振り返ったとき、今回の執筆にあたり大きな後押しにもなりました。

 あの「チラシ」を受け取り、中邑賢龍先生、福島智先生、シェリル・バーグスターラー博士達と初めて出会った2006年の講演会から10年の歳月が流れたことを思うと、何とも感慨深く思うわけです。

 出版に際しての想い

 さて、この本を著すのは、思いのほか大変なことでした。皮肉なことですが、あの18歳までの健常時代の私が、「弱者へのイメージ」に大きな偏見を持っていたということに、私は障害を抱える当事者となって初めて思い知ったのです。
  ひところメディアでよく見られた「屈託のない笑顔でがんばる障害者の感動ストーリー」といった典型的な「障害者もの」に、かつての私はピュアな感動と心地よさを感じていましたし、視聴者としての私は身近な障害者にも、それが現実であるかのように思っていました。
  しかし、障害者も人として悩み苦しみ、ドロドロとした「普通」の感覚も持った存在であるのが実際で、私はこの本ではそういった自身の経験してきたリアリティをなるべく具体的かつ忠実にさらけ出したいと思いました。虚像ではなく、実像の私が表現したかったのです。
  本編でも述べたように、「障害者がメディアによって視聴者にはどのように消費されるのか」という疑問について、私もかなりの葛藤があったわけです。
  ただでさえ「見た目から分からない障害、言葉で説明されてもよく分からない障害」という、恐らく多くの読者にとっては未知の問題。そんな繊細な話について、私があたかもその分野のモデルケースになってしまうことや、誤った情報だけが独り歩きしてしまうことは、なるべく避けたいことでした。
  自分に何か意図があってもなくても、その「伝え方ひとつ」で言葉はどうとでも改変され、伝わっていきます。だから、とにかく丁寧であることに拘(こだわ)りたいと思っていました。
 
  ですから、出版社・編集者選びは慎重でした。
「あけび書房」という出版社に原稿を持ち込んだきっかけは、私が大きな関心を寄せている社会保障の問題を広く扱っていたということと、今年、第30回梓会出版文化賞を受賞されたということで話題になっていたことです。
  編集にもあたってくださった久保則之社長は、この出版不況のなか、私に自費出版を促すことも買い取り要求することもなく、しっかりした本を出すということへの意義と信念をもって、私の稚拙な文章と丁寧に向き合ってくださいました。
  商業的なことを言えば、「障害なんて、不幸でもなんでもないよ」とか「障害があっても僕は明るく生きてるよ」といった希望に溢れたメッセージがどれだけ世間で受け入れられやすいかを考え、這いずり回っていた時期をカットし、売り物にすることもできたでしょう。
  しかしそれでも、私の主張するリアリティへの想いを汲んでくださって、本書のような形での出版にゴーサインを出してくださったことに、心より感謝しています。

 また、本著はこのほか大勢の方々の協力があって完成に至ったことを特筆しなければなりません。私が次の進むべき道と自分の過去を見つめ直してとまどっていたとき、
「本、出してみたら?」
 と執筆を勧めてくださった守山菜穂子さん。
 最大手の出版社で活躍されたキャリアがあり、ブランドコンサルタント・メディアプロデューサーとしての実績などからの助言は力強く思いました。
  私が単身上京したばかりで東京の右も左も分からなかったとき、外見から障害が分からないというところに注目して、雑誌の読者モデルのお仕事で私を演出してくださった守山さんだからやってみようと思いました。改めて、ありがとうございます。
 
  近年、大学のゼミなどで「多様性理解」を目的に、学生たちが主体となって開かれるようになった「ヒューマンライブラリー(生きている図書館)」というイベントがあります。
  これは、日ごろ偏見の目で見られやすい人が本の著者(語り手)という立場をとって話をし、図書館への来場者(聞き手)が読者となり、相互理解を目指すという2000年デンマークで始まった取り組みです。
  ここでのルールは「本を破らない・書き込まない・持ち帰らない」という3点で、出演者の安全が約束されます。今では世界50か国以上で開催されています。
  私も、ヒューマンライブラリーには日本で最初におこなわれたときから「生きている本」として参加し、日本全国で最多の出演をしました。
  今回の本の内容に関しては、そこで私が語ったこと、聞いたことを整理したものが中心となっています。私はこの催しを通し、年齢も属性も多様な方と顔と顔を突き合わせて多くの対話を経験することができました。自分という人間や自分とは異なる他者の存在を整理することができたように受け止めています。
  私のような者にスポットライトの当たる舞台を多く提供してくださった駒澤大学の坪井健先生、明治大学の横田雅弘先生、獨協大学の工藤和宏先生、そして先生方のゼミに所属された歴代の学生の皆さまには、心より感謝いたします。

 今回の原稿の最終段階では、この10年間ともにプロジェクトを進めてきた東京大学先端科学技術研究センターの近藤武夫准教授、巖淵守准教授に過去の出来事の確認などをしていただきました。ご多忙の中での確認作業、本当にありがとうございました。

 こうして読み書きに困難を抱えている私が、テクノロジーや人の手を借りながら一冊の本を作り上げることができるとは、病気に悩んでいたころには到底考えられないことでした。
  何か一連の制作過程がドラマティックであったような感じもしています。
 
  執筆中、見て見ないふりをしてきた過去を掘り起こしたり、自分と対峙する中で苦しい時期が何度もありました。そんなとき、いつも自作の音楽で応援歌を届けてくださった石川忠志氏、ユニークな自作の絵画で笑わせてくれた中澤基浩氏。
  彼ら以外にも、お礼の告げる人を数え上げればきりがありません。
 
  最後に、身内はホメないという日本人の美徳をあえて侵して、小っ恥ずかしい家族へのお礼を述べたいと思います。
  病気から10年、誤解や衝突もありましたが、やはり不器用なりに感謝しています。
  いつも、ありがとう。

        2015年10月                     小林 春彦