まえがき ──「微笑みかげん」を考える(解題)


 電車に乗る。街を歩く。たくさんの人がいる。下を向いている人が多い。携帯電話を眺めていることが多いけれども、そればかりでもない。疲れている人、不機嫌そうな人…なんだか、表情が下向き加減だ。
  次の瞬間、微笑むかもしれない――そう思わせるような表情に時折出会うことがある。そういう人は、年齢に関係なく、見かけの「つくり」にも関係なく美しい。他人を見てそう思うのだから、自分も、できれば「この人、次の瞬間、微笑むかもしれない」と思わせるような顔をしていたい。
 私なりに、多少の悔いも残る多感な青年時代を過ごし、労働組合の専従として三十数年を生き、社会運動にもかかわってきたなかで、どこに居ても、どこに行っても、どんな場でも「微笑みかげん」の人と出会えるといい、と思うようになった。そんな社会ができるといい、という思いで、「微笑み社会」に向かう闘争に挑む。そのなかで微笑むことのできる自分が形成されていくというようなことになれば、何か、とても素敵なことのように感じる。

 智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安いところに引っ越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき詩が生まれて畫が出来る。

 若い頃に読んだ漱石の『草枕』の冒頭の一節である。そのあとに「人の世をつくったものは神でもなければ鬼でもない…唯の人がつくった人の世が住みにくいとて、越す国はあるまい」という言葉が続き、詩人や画家の存在意義が語られる。
 若い頃には詩を書いた。絵はからきし才能がない。音楽は多少やった。今でも時々「原冨バンド」を率いていい気分になる。しかし、それでメシが食えるワケではない。詩人や画家の作品を眺め、コンサートや芝居見物に出かけてしばしの気分的な豊かさを感じることがあっても、日々を生きていくエネルギーには足りない。
 引っ越す所がなければ、住みにくさを変えるしかない。唯の人がつくった人の世であれば、人の力で変えてもいけるのではないか。変えようとする自覚は未来を構想する力になる。住みにくさの原因は2つあるだろう。ひとつは自然界の不都合で、これは自然科学の発展を頼りにすることになる。もうひとつは、「唯の人がつくった人の世」という言い回しに含まれる社会のありようだ。
 会う人みんなが微笑みかげんであるような社会のありよう、そこに向かって、何かしらの努力をするのは、苦痛を伴うこともある。社会のありようにモノ申すということになれば、権力者と対峙するというようなことがあっても避けるわけにいかない。新しい未来を構想すればいまの社会の支配層から撲たれ、新たな闘いを強いられることもある。それでも、未来に向かって進んでいるという感覚と確信は、次の瞬間の微笑みを呼ぶ。人生は、そして闘いは、何かしら、微笑ましい。

 序章では、労働組合運動をめぐる、私なりの今日的な問題意識を提示した。
 第1章では、労働組合の組織運営にかかわって、「仲間をつなぐ」作業について、いくつかのヒントを提供することとした。働く仲間が仲良くなること、組合でつながる仲間が増えていくことは、人間の本性として楽しいことだ。
 第2章では、少しばかり視野を広げて、労働組合の社会的な位置と役割を意識しながら、社会運動のありようについて考えてみた。
 何かの時に、ふとつぶやくことがある。それは自分自身を充電することにもなっている。終章は充電の時の私のつぶやきだ。

 本書では、自らのささやかな体験から、何か運動の「法則」めいたものを見いだすことに努めた。私なりの体験的な労働組合組織論、社会運動論の一端である。
 労働組合は、働く者が明るく元気に働き続けられるような、みんなが微笑みかげんでいるような社会にしていくために存在する。そんな夢のある、創造的な活動が楽しくないはずがない。だからこそ楽しみながら活動したい。それを楽しめるような自分でありたい。
実際、 労働組合運動は楽しい。