はじめに

 2007年10月12日、ニューヨークタイムズ紙が、「死によって明らかにされた日本の『モデル』の無情な側面」と題する記事を掲載した。
  52歳の男性が、福祉事務所から生活保護を廃止され、「オニギリ食いたい」との日記を残して2007年7月に餓死した「北九州市小倉北餓死事件」。その事件を、あの廃屋のような家屋の写真とともに報道したのである。ちなみに、「モデル」とは、北九州市の生活保護行政を指してのことである。
  ニューヨークタイムス紙以外のいくつかの外国のメディアも、「経済大国ニッポン」のこの事件を驚きをこめて報道した。
  2006年5月に発生した56歳の男性が生活保護申請を拒絶され餓死した「門司餓死事件」以降、北九州市の過酷な生活保護行政は、「国の生活保護切り捨てのモデル」として全国に知られるようになったが、日本の貧困問題の象徴として、ついに海外の人びとにも知られるまでに至った。

 生活保護行政を改善させるために全国の多くの市民や法律家・研究者によって結成された生活保護問題対策全国会議が2007年10月13日に北九州市で開いた集会で、大勢の参加者とテレビカメラを前にして、一児の母が声を詰まらせながら、「困ったときに助けてくれる行政であってください」と訴えた。長くなるが、その切実な声を紹介しよう。

 私は47歳で、9歳の男の子との母子家庭の母親です。北九州市小倉南区に住んでいます。
  今から6年ほど前に離婚しました。離婚の原因は借金で、夫はお金がないといって養育費はくれませんでした。
  離婚後、私は、情報誌の配達のアルバイトをしていましたが、仕事を続けるうちに、手のしびれと痛みが出てきて、縛ってある情報誌を両手に50冊ずつ持って運ぶことができなくなりました。その後は、知人の喫茶店で調理や仕出しの手伝いをしていました。
  手のしびれと痛みには、痛み止めで対処していたのですが、ある日、両手の感覚がなくなり、お茶碗を洗っていても気づかず落としてしまうようになりました。そのため、喫茶店での仕事もそれまでのようには続けられなくなりました。いろいろな検査を受けるうちに、甲状腺の腫瘍がみつかりました。幸い良性だったのですが、身内をガンで亡くしている私は、私もガンになるのではないかと不安になりました。
  働けないので、そのころの収入は、児童扶養手当と児童手当で月5万円以下でした。
  そんな状態で私がもし入院になってしまったらどうしようと思い、まずは生活の基盤を作りたいと考えて、去年の2月に、小倉南区の保護課に生活保護の申請に行きました。職員からは、「差額ベッド代? たかが2〜3万でしょう。親兄弟か友だちに借りればいいじゃないですか」「友だちに借りたら利息はつかないでしょうが」と言われました。私は、「あなたの1万と私の1万の価値は違います」「親兄弟には昔さんざん迷惑をかけたから、もう貸してくれるところなんかないんです」と言いましたが、全く聞いてもらえませんでした。
  話の途中で、「生活保護のしおり」を渡され、職員は面接室を出て行きました。私は、しおりを最初から最後まで読みましたが、読み終わっても職員は戻ってきませんでした。15分くらいたって、面接室から出てみましたが、保護課のカウンターの中にも職員はいませんでした。カウンターの前のベンチで待っていましたが、戻ってきませんでしたので、あきらめて帰りました。「保護課は困った人を助けてくれないんだな」と思いました。
  その後、私は狭心症と診断され、ニトログリセリンが手放せなくなりました。
  そこで、今年の3月に、もう一度生活保護の申請に行きました。しかし、このときも、親がおるでしょう、兄弟がおるでしょうと言われて、申請書はくれませんでした。
  喫茶店の手伝いは続けていましたが、週1回くらいになりました。家賃は滞納するし、電気が止まったり、ガスが止まったりするようになりました。今年6月、台風の寒い日に、息子を水風呂に入れたときは、ふびんで仕方ありませんでした。
  どうしようもなくなって、今年7月に保護課に行きました。3回目です。そのときは、ガスは止まっていました。電気は、その日に止まるという紙が入っていました。水道も、何日に止めますよという予告をされていました。保護課には、そういう紙を全部持って行きましたが、面接主査はその紙を見ようともしませんでした。
  「福祉っていうところは、お金のない女一人、子ども一人、死のうが生きようが、どうでもいいんだな」と思うと、涙が止まりませんでした。
  夜になってもあかりがついていないのに気づいた近所の人が、「子どもをどうするつもりなんね!」と言って、電気代と水道代を払ってくれましたが、生活のめどは全く立ちませんでした。
  もう、どうやっても、子どもを食べさせていくことができない。離れたくはないけれども、私が行方不明になったら、この子だけでも保護してもらえるかもしれない。そんなことを考えると眠れなくなり、考え込むと涙が止まらず、マイナスなことばかり考えて、死にたいと思うようになっていました。
  眠れない夜に、携帯電話で、生活保護のことが書いてあるサイトをみつけました。そこに自分の保護課での体験を書き込んだことがきっかけで、法律家の先生たちと出会い、申請についてきてもらうことができました。今年7月23日のことです。そのときは、簡単に申請書をもらうことができました。今まで苦労したのは何だったんだろうと思いました。
  今、私は、保護を受けて、安心して生活することができています。この前は、お世話になった近所の方を呼んで、私が作ったおでんを食べてもらいました。ガスでコトコトおでんを煮込みながら、ガスや電気・水道が止まる心配をしなくていいというのは、幸せなことだなと思いました。本当にうれしかったです。
  行政の方にお願いです。私は、あのまま生活保護を受けられなかったら、今頃、ここにいなかったかもしれません。困っている方はまだたくさんいると思います。そういう方を追い返すのではなくて、助けてください。よろしくお願いします。

 彼女はいちるの望みを託して、相談できるところを携帯サイトで探したところ、東京の生活困窮者支援団体「もやい」につながり、「もやい」事務局長の湯浅誠氏がただちに生活保護問題対策全国会議のメーリングリストを通じて、北九州市社会保障推進協議会の高木佳世子弁護士と濱田なぎさ司法書士に連絡を取り、翌日すぐさま2人が彼女の自宅に駆け付けて、同行申請のうえ生活保護受給に至り、一命を取りとめた。
  自分のような福祉事務所から蔑まれて、崖っぷちに追い込まれる人をこれ以上産み出してはならない。そのような想いで彼女は勇気を振り絞って、慣れない場で自らの体験を語ったのである。

 もうひとり、「生活保護で私と同じ苦しみをさせないでください」との56歳の男性の訴えも紹介しよう。

 私は昭和26年生まれで、56歳です。元気なときは、家の解体作業員として仕事をしてきました。
  去年、平成18年の3月に高血圧と心臓不整脈で倒れて、働けなくなりました。収入もなくなり、持っていたたくわえで生活しました。
  そのお金もなくなり、去年の6月に生活保護の申請に小倉南区の保護課に行きました。保護課では「役所まで来られるのなら、働けるから、仕事を探しなさい。医者が働けないと言わないとダメです」と言われ、申請書を渡してくれませんでした。仕方なく、食事を1日1回にしたりして食いつなぎました。市営住宅の家賃も6月から支払えなくなりました。
  3か月たった9月に、また保護課に行って生活保護をお願いしました。この時も6月と同じように「ここまで歩いて来られるなら、働けるはずだから、ダメです。兄弟にでも、面倒を見てもらいなさい」と断られました。
  10月になって、私は、生きる望みもなくなって、自ら命を絶とうと思い、ネクタイを使って首を吊りました。ネクタイが切れて死ねませんでした。もう一度、死ぬ準備をしているとき、母親が残していたわずかなお金が見つかりました。私は、「死ぬな」ということだと思いました。
  市役所からは、使用料の未払いによる市営住宅明け渡しの裁判を起こされました。
  12月になって、からだが動かなくなり、救急車で病院に入院しました。入院したから働けないことを認めてもらえると思って、姉に生活保護の申請に行ってもらいました。姉は、「本人が働けないなら、あなたたちが面倒を見なさい」と言われたと、怒って帰ってきました。
  今年の1月に退院しました。3月2日には、市営住宅明け渡しの判決が出ました。
  新聞で見て、3月13日に生活保護110番に電話しました。そこで、「もう一度、生活保護の申請に行ってみてください。保護の申請をします、とはっきり言うように。ダメだったら、連絡ください」と教えられました。その日に保護課に行って、「生活保護を受けたいので申請用紙をください」と強く言いました。受付の人は申請用紙をくれましたが、「申請書を持ってきても、受け付けるかどうかは分からんよ」と言いました。
  私は、これまで何度もいやな思いをしてきたので、この言葉で悩んで申請書を出せないでいました。3月29日に生活保護110番のときの高木健康弁護士(北九州市社会保障推進協議会会長)から連絡があり、翌日の30日に高木弁護士と一緒に、保護課に行きました。保護課では、これまでとは全く違って、簡単に申請を受け付けました。そして、4月20日に生活保護の決定が出ました。
  私は、苦しい状態にもなりましたが、生活保護110番との連絡ができたので、生活保護を受けることができました。生活に困っている人がひとりで行っても、追い返すのではなく、生活保護を受け付けることが必要だと思います。

 この男性も先に紹介した母親も市民団体や弁護士に出会っていなければ、みずから命を絶っていたかもしれない。
  「オニギリ食いたい」との小倉北餓死事件は、たまたまメディアが大きく報道することとなった事件であるが、北九州市では、国主導による「ヤミの北九州方式」が始まったとされる1967年から現在に至る40年間に、生活保護を受けられないための餓死・自殺事件が無数に発生している。

 私は今年の3月に北九州市職員を事情があって退職するまでの数年間、同市の福祉事務所のケースワーカーとして勤務していたことがある。大学時代にインド哲学を学び、インドを長期放浪し、ストリートチルドレンなど、貧困を目のあたりにしていたことから、いつしか福祉の仕事をしたいと生活保護のケースワーカーを希望して、その職に就いたのだった。
  その間、私はさまざまな経験をし、以下の本章で詳述するような事態を目のあたりにしてきた。市当局の生活保護「切り捨て」政策をそのまま市民に押し付ける職員もいれば、市の方針と良心の間で苦しい思いをしながら、生活保護を必要とする方々の目線で一生懸命に努力する職員も少なからずいた。後者のような職員が急激に生活保護現場から減らされるなかで、北九州市は自殺・餓死の頻発する「福祉が人を殺す都市」となっていった。
  2006年5月に門司餓死事件が発覚し、それ以降、私は北九州市の生活保護行政を経験した者の責務として、全国の福祉・法律関係者、各メディアに北九州市の生活保護行政の実相を伝え続けてきた。
  そして、私は2007年3月に市役所を退職したが、あけび書房代表の久保則之さんから出版の話をいただき、本書を執筆することとなった。

1章では、3年連続4件の餓死・自殺事件について、地域住民や遺族への取材を重ねて、その真相に迫った。
2章では、1章で詳述した事件以外にも、福祉事務所の生活困窮者への人権侵害事例は無数に存在している。それらを取り上げた。
3章では、餓死・自殺事件を産み出し続ける背後に存在する国が主導で造った「ヤミの北九州方式」の全容に迫った。
4章では、「ヤミの北九州方式」の表裏一体として存在する「地域福祉の北九州方式」、いわゆる「オモテの北九州方式」について掘り下げた。
5章では、全国の関係者が総力をあげて「ヤミの北九州方式」と闘い続けた記録を振り返った。
6章では、364人と4団体(後に316人が追加告発、追加申立て)が2007年8月24日に小倉北福祉事務所長を刑事告発し、同時に人権侵犯救済申立てをした経過と意義を、尾藤<CODE NUM=4168>喜弁護士が解説し、
7章では、なぜ全国の関係者が北九州市の生活保護問題に注目し、その改善の運動を支援するのか、北九州市問題の全国的な位置づけを、同じく尾藤弁護士が解説した。

 北九州市の生活保護行政で起きている餓死・自殺事件は、単なる一地方の問題ではない。餓死・自殺事件を生み出す「ヤミの北九州方式」は、1967年以降の旧厚生省天下り官僚の下で造られた「国の生活保護切り捨てモデル」であり、厚生労働省の指導と通知によって日本全国に広がっている。
  北九州市に限らず、生活保護を受けられないがための餓死・自殺事件は全国で多発している。特にこの数年、急増している。
  「ヤミの北九州方式」はその源流なのである。「ヤミの北九州方式」を放っておけば、いずれあなたの住む街の福祉事務所にこの手法が広がり、餓死・自殺の頻発する街になるであろう。
  北九州市の過酷な生活保護行政の実態を全国の一人でも多くの方に知っていただくこと、そしてそのことが、国が全国に「ヤミの北九州方式」をさらに普及しようとすることを阻む力になることを願って、本書を出版した。
  そして、もう一つ読者の皆さんに知っておいていただきたいことがある。北九州市当局の、また国の生活保護切り捨て路線が激しさを強めるなか、それに深く心を痛め、悩み、生活保護を必要とする人びとのための生活保護業務を遂行するために多大な努力をしている職員も全国の現場には少なからずいることである。そして特に本書5、6、7章で詳述しているように、その職員たちと市民・研究者・法律専門家などとの連携の環が急速に広がっていることである。
  生活保護は「最後のセーフティネット」「最後の命綱」である。あなたの街と日本全国の「最後のセーフティネット」を守るために、この本が役に立てば幸いである。

2007年11月  藤藪 貴治